私が鬱になった理由
※再投稿ですのでお気をつけください。
初めまして、霧涼アリカと申します。
最初の記事なので、まずは自己紹介代わりに自分の今までを書いていきます。
さて、そもそもこの記事を見てくれたということは、鬱について知りたいということでしょう。
- 自分が鬱気味かもしれない。
- 家族がもしかしたら鬱かも。
この記事では『鬱』そのものの解消方法について書くことはありません。
ただ『鬱』になる切っ掛けを、もしかしたら私の話の中から見つけることができるかもしれません。
少々長い話にはなりますが、こういう人もいるんだなって程度に見て頂ければ幸いです。
私が鬱になった理由
幼少期(~保育園)
私は特に遅れて育ったという認識はありませんでした。
生まれが3月で、早生まれなので多少周りと成長の差はありましたが、歩いたり話したりの能力は劣っていなかったそうです。
少し周りと違っていたのは、自己主張が苦手な事でしょう。
自分のやりたい事をはっきりと言うことが出来ない優柔不断な子供で、周りに流されることが多々あったと思います。
もっと主張できる子供であったならばこの後も苦労せず生きられたでしょうが、小さな子供には酷なことかなと。
少なくとも、この頃不自由を感じたことはありませんでした。
小学生(~低学年)
保育園の頃は自分自身を上手く認識出来ていませんでしたが、成長するにつれて疑問を持つことが多くなってきます。
私は両親が自営業で、父方の祖母に育てられていました。
両親とも一緒に住んでいたのですが、1日に話す機会は母と朝十数分、父とは1週間に数回話せば良い方という状態でした。
普通に考えて少なすぎますが、私は祖母に育てられていたので、
「おばあちゃんに育てられてるんだから、あっちは生んだだけの親なんだ」
と、そんなことを考えて親を親と認識しないようになっていきました。
ただ勿論親への愛情の欠乏はありますし、前述の自己主張が苦手というのが足を引っ張ってきます。
小学生になってくると、次第に周囲でもカーストのようなものが出来始めてきました。
難しい話ではなく、面白い奴とかに人気が集まるようなものです。
無論私は下の方に属し、所謂いじめっ子という子達に苛められるようになりました。
確か、小学2年生の頃にはあったと思います。自分よりも大きな体の子が上に乗っかったり、女子トイレへ足を引きずって投げ入れられたり。
そんな状況で、私は親に泣きつくことができませんでした。
だって、当時の私からしたら親じゃないんですもん。
ただ泣くばかりで、ずっと変わらない毎日でした。祖母には、迷惑をかけられないと思い黙っていました。
ただ、後に聞いてみると母親は毎日泣いているのを知っていたらしいです。特に何か助けてくれたという思い出はありませんが。
もしこれを見ている親御さんがいたら、お子さんへ優しくしてあげてほしいなと思います。私みたいに甘えるのが苦手な子供もいるので、沢山優しくしてあげてください。
記憶が曖昧なのですが、確か小学2、3年生の頃だったと思います。毎日こんなことを考えていました。
「死にたい」
今の私からすると早熟もいいところだと思ってしまいますが、本心でした。
マンションの5階に住んでいたので毎日身投げし放題ですから、ふと思うたびにベランダに出て下を見ていました。手すりの上に立ったことは何度もあったと思います。
でも死ねなかったのは、祖母の存在のお陰です。
おばあちゃんがいたから、悲しませられなくて思いとどまっていました。
小学生(~高学年)
毎日死ぬことばかり考えていた私ですが、ある時転機が訪れます。
引越しすることになりました。
新しい土地、新しい学校です。今までの自分を変えたいという思いもあります。
なので、自分自身を丸っきり変えました。
転校デビューと言うのでしょうか。いっぱい喋ってなんか面白そうなことをしてと、これまでの自分を捨てて新しくやり直したのです。
普通なら今までとのギャップで上手く演じられない部分も出るはずですが、引っ込み思案だった私は、他人を観察することだけは上手でした。
誰かが話している時に自分から話しかけることは出来なくとも、話している人のことをじーっと見たり聞いたりしていたのです。
なので、上手く演じることができました。
逆にいえば、抱えていた問題を、蓋をしてそのまま自分の奥底へと積んでいたのです。
小学校高学年では、一つだけ嫌なことがありました。
それは卒業する時に、家族へ手紙を書いたときです。
内容が書けなかったわけではありません。それは何とかなりました。
ただ、両親の名前を漢字で書けなかったんです。
難しい文字ではありません。純粋にこの名前で合っていたか確信が持てませんでした。
名前を知る機会がなかったし、引っ越ししてからも話をすることなんて全然無かったんです。
手紙を書きながら泣いてしまったのを覚えています。
中学生
中学校も、最初は上手に出来ていたと思います。
新しい友人や、部活に入って知り合った先輩。友人運にはなかなか恵まれていました。
しかし演じ始めて3年が経ち、ほつれが出てきました。
班分けで一人余ってしまった時、何故か唐突に悲しくなって泣いてしまった事がありました。自分でもどうしてか分からず涙が出てきたのですが、単純に寂しかったんでしょう。親への愛情の欠乏が、少しずつ出てきていたんです。
そして中学2年生の8月、問題が起きました。
夏休み中の部活で、よく一緒に遊んでいた仲の良い友人が唐突に言いました。
「なんか最近、俺の家の近くで放火が起きてんだよね」
周囲の他の友人は笑い話として聞いていましたが、私は違った受け取り方をしました。
あ、放火したの、お前なんだな。と。
人の機微をよく見ていた子供でしたから、その友人が普段と少し違う話し方をしたのを感じ取ってしまったんだと思います。
その時の私は、気付いてしまった事を確信したと同時に、悩みました。
他の友人に話すべきではないのか。直接話をして思い留まらせることはできないのか。
結果、私は何もしませんでした。
こいつのことを信じよう。こいつはやらないはずなんだ、と。
友人を信じることによって、自分の中の確信を無かったことにしたのです。
友人は数ヶ月後、警察に捕まりました。
あの時の確信は、間違っていなかったのです。
このときの事が、自分が鬱になった切っ掛けの、発端だと思います。
直接自分が起こしたことではありませんが、自分の中に起きた大問題。それが爆発してしまい、奥底に積んだままにしていた小学生の頃の問題を開いてしまったのです。
春になり、中学3年生になってもずっと悩んでいました。
あの時何かできなかったのか、唯一周りで気づいていたのにどうして動かなかったのかと、延々考えていました。
その時指を噛み千切ってしまいたいと親指を噛み始め、今でも噛み癖になっています。特に大事に至るようなことはありませんが、自傷癖に近いものでしょう。
答えの出ないまま悩み続け、一つだけ分かったことがありました。
人を信じるのと、自分を甘やかすのは大違いなんだ。
それからは、自分を甘やかすことはしないようにと心に決めました。
それから少し時間が経ち、高校受験が本格化してきました。
私はなあなあで勉強しながら、ちょっとずつ体調が変化してきたのを感じます。
最初は、やる気が思うように湧かずに塾をサボりはじめました。
上手く寝付けなくて朝方になってしまい、学校を遅刻する回数が増えていきました。
秋頃になってくると、集中するなどして意識にちょっとでもストレスがかかると手が震えて字が書けなくなりました。
当時、よく分からないけど何なんだろうと、不思議に思うことはあれど『鬱』だなんて思ってもいませんでした。
単なる体調不良だろうと、そう思っていただけです。
冬が終わり、私は無事高校に合格して高校生となりました。
高校生
高校に入学して、2日目に学校を休みました。
理由は、何故か体調が良くないからです。
後から考えれば鬱の症状ですが、その時はそんなこと考えてもいません。
その後は出席して、また体調が悪くなれば休んでの繰り返しで、次第に休み日が増えていきました。最終的に1週間のうちに半分は休んでいたと思います。
両親は病気を疑い、色々な病院で検査をしましたが結果分からず。
当の本人は「なんでだろなー」と軽く考えていました。
ある日近所の町医者に受診したとき、こう言われました。
「もしかすると気持ちの問題かもしれないから、紹介状書くからここ行ってみたら?」
紹介されたのは心療内科の病院でした。
紹介された病院へ行き、質問の書かれた紙に答えたり先生に色々なことを話したりして、最初に渡されたのは漢方の胃薬でした。
その時の私は「まー仕方ない飲むかー」と適当に考え、飲んだり飲まなかったりな状態でした。だって、お腹の調子を良くするって話でしたから。
確かに下痢が酷くてお腹が常にガスで張っていましたが、大問題とは思ってなかったんです。
後々調べてみると、もう名前は思い出せませんがあの薬は、気分を落ち着かせる作用も持っていたらしいです。残念ながらちゃんと飲まなかった私は、症状が安定することもなくズルズルと悪化していきました。
夏休みを終えるころには、もうまともに学校に通える状態ではありませんでした。
最初は体調不良でしたが、次第にさまざまな事が脳裏をよぎるようになったのです。
友人を助けられなかった事から始まり、小学生の頃苛められたこと、毎日死にたいと思ったこと、両親に愛して欲しかった事。今まで溜め込んできた全ての事が自分の内側から飛び出し、日常生活に支障が出るレベルになっていたのです。
なので、何度か通った心療内科の先生が言っていた『通信制学校』というものを選択することにしました。
両親は休学してもいいからそのまま学校に通ってほしかったようですが、自分の体調的にそのままだと回復することは絶対無いと思っていたので、あっさりと高校を辞めました。
通信制学校では適当に必要な単位を取得しつつ、大学行くのかなーなんて思いながら、またもやなあなあで勉強していました。
無理矢理にでも行かなければならない学校ではないので、気分的には多少回復したと思います。
そしてなあなあで勉強しながら、どうしてこうなったんだろうと考えていました。
でも、あまりにも問題が多すぎて、どれから解決すればいいか見当がつきません。
なので、一つ一つゆっくりと解決していくことにしました。
小学生の頃思った事や、あった出来事、友人の事や両親の事。自分の中で折り合いをつけたり考え方を見直してみたりとゆっくり進め、いつの間にか体調が安定するようになりました。
高校3年生になると、大学受験のシーズンが迫ってきます。
残念なことに、私は勉強に対して思い入れがさっぱりと無くなっていました。高校生という勉学に一番励まなくてはいけない時期をスルーしてしまった為に、やる気がなかったのです。
では何ができるのかと考えました。
そして、ふと思います。
「あれ、もしかして自分って鬱だった?」
鬱の状態を脱してから漸く、自分が鬱であったことを認識できるようになったのです。
それからの私
大きなことは書き終えたので、以降の事はさらっと書いていきます。
高校卒業の後は鬱を演技に生かせないかと演劇の勉強をして、いややっぱり自分のやりたいことは違うな、美味しいごはん食べたいし、ということで1年アルバイトをして学費を貯めて調理の専門学校へ行きました。
調理学校では今も一緒に住んでいる彼女と出会い、個人店の和食の店へ就職し、1年半で過労と仕事や生活の事に関するストレスにより退職。学費を貯めていたアルバイト先のマネージャーに声をかけてもらい、フリーターとなって今に至ります。
現在は最初に行っていた心療内科とは別の病院へ行き、2種類の薬を処方して貰いながら何とか生活している状態です。
しかし先月また発作のように鬱が爆発し、精神的には低空飛行。鬱とはずっと付き合っていかなくてはいけないのかなと思います。
さて、スルーしていましたが今も残っている幼い頃の問題があります。
それは、両親の事。
高校生の頃自分の中で折り合いは付けましたが、あくまで自分の中。
両親と直接話をしたわけではありませんので、今も両親とは円滑な関係とは言えない状態にあります。
大人になって、キチンと話をしなくてはならない歳になりました。
もしここまで読んでいただけた中で、鬱の方がいたら、自分からはとても励ましの事なんて言える立場にありません。
他の鬱の方と比べたら、とても小さな悩みで鬱になったかもしれません。
でも頑張る一歩分だけは、一緒に進めたらいいなと。
そんな風に前進出来るブログにしたいなと思います。
長々と読んで頂き、ありがとうございました。
これからも鬱のことや、全く関係のない趣味の話を書いていきますので、よろしければまた遊びに来てください。
▽ツイッターやってます▽
投稿:2019年10月19日